2001 MARCH vol.65
 ロビンソンの願いが届かず、閉鎖された鳴尾コース。そこにゴルフ場(後の甲南ゴルフ倶楽部)を再建したのが、南郷三郎だった。

 南郷は1900年(明治33年)に紡績業の「日本綿花株式会社」へ入社。1932年(昭和7年)には社長に就任したように、類いまれな経営手腕を発揮していた。

 そんな南郷にゴルフを勧めたのは、なんとロビンソンの鳴尾コース設立に多大な協力をした安倍成嘉。それまでテニス、柔道、ボートを楽しんでいたスポーツマンの南郷が、アキレス腱断裂の大けがをした。おそらくそのリハビリも兼ねて、安倍は南郷にゴルフを進めたのかもしれない。1919年(大正8年)に、安倍の紹介で神戸GCへ入会したところ、たちまちゴルフの虜となる。さらに、鳴尾コースへも入会した。だが、ほどなく用地問題でコースは閉鎖。そこで、南郷は同メンバーだった人たちと、当時の兵庫県垂水に新たなゴルフ場「舞子カンツリー倶楽部」をつくったのである。また、この時、あの福井覚治をプロ兼キャディマスターとして任命したのだ。

 さらに、その2年後、かつて横屋コースだった土地がそのまま放置されていたため、土地の権利者にコース再建を願い出た。1922年(大正11年)、もとの横屋コースが「甲南ゴルフ倶楽部」として、生まれ変わった。

 南郷はその後、広野ゴルフ倶楽部創立やJGAの設立(初代チェアマンに就任)、関西ゴルフ連盟の設立などにも貢献した。

 南郷は、ロビンソンに協力した安倍からゴルフを勧められ、ロビンソンがゴルフを教えた福井覚治をプロに育て、ロビンソンが設立した鳴尾コースが閉鎖したのをきっかけに舞子CCを設立し、そしてロビンソンが最初に設立した横屋コースの跡地に甲南GCを創立。まさに、ロビンソンが基礎を作り、南郷がさらに発展させる。2人を引きあわせたものは“ゴルフ”に対する情熱だったに違いない。


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