2001 MARCH vol.65
 程ヶ谷CC完成後、東京GCへの客足が鈍るかと心配されたが、やはり程ヶ谷CCが郊外だったためにそれほど影響は見られなかった。
 しかし、土地の借地料はますます値を上げ、ついに1932年(昭和7年)、移転を決定した。

 いくつかの候補地の中から、当時の埼玉県・膝折村に決定。だが、ゴルフ場が「ヒザオリ」ではいかんと、「朝霞」に改名した。また、設計は当時の英国で最高の設計家と称されていたH・S・コルトに依頼することになったものの、コルトが老齢だったため、彼と一緒に設計事業をしていたC・H・アリソンが来日する。そう、あのアリソンバンカーで有名な彼は、実は先輩の代役だったのである。言うまでもないが、アリソンはその後の日本人設計家に大きな影響を与えるとともに、基礎を伝えた。
 さらに、これまでにない新しい試みを実施した。相馬孟胤を中心に日本で初めてコース全面に洋芝を用いたのだ。

 この2つの試みによって、当時の日本人にとっては全く未知なる美しさを持ったゴルフ場が完成。1932年(昭和7年)5月1日、華々しいスタートを切った。

 ところが、日本はもちろん世界の情勢は一変し、戦争の影がせまってきていた。この時局の変化に伴って、朝霞コースは陸軍省に買い上げられ軍施設となってしまった。1941年(昭和16年)4月に閉鎖され、再びその姿を見ることはなかった。
 そして、東京ゴルフ倶楽部は、秩父カントリー倶楽部と合併して現在の狭山へ。大谷光明の設計により、現在の姿に至っている。


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