2001 MARCH vol.65
 終戦後、1945年(昭和20年)10月から、続々とゴルフ場が再開した。経済の発展とともに、ゴルフ場の数は徐々に増加していった。

 そして、ゴルフの大衆化のうえで、大きな役割を担った大イベントが開催された。1957年(昭和32年)の「第5回カナダカップ」である。会場となったのは霞ヶ関カンツリー倶楽部(東)。36カ国が参加し、それぞれの代表2人の合計スコアで順位を決定する競技だった。この世界的なイベントで、日本チーム(中村寅吉、小野光一)が優勝。この快挙は、日本初のテレビの実況放送によって、一般の人たちの目にも飛び込んだ。そして、“ゴルフ”というスポーツが広く民衆に知れ渡ったのである。

 これをきっかけに、1959年頃からゴルフ場数も急速に増加していき、ゴルフ人口も増していった。

 1970年代に入ると、世はまさに高度成長期。この波は、ゴルフ場にも大きな影響を与えた。これまでの職人気質の高いゴルフ場建設から、大手ゼネコンによる数百億円の大プロジェクトへと進化していった。また、ブランド志向が高まったこともあり、海外の一流の設計家(ロバート・トレント・ジョーンズ親子、ピート・ダイ、ディズモンド・ミュアヘッド他)によるゴルフ場も急速に増えていった。

 さらに、日本のトーナメント界に“ジャンボ尾崎”というニューヒーローが誕生したことが、ゴルフブームに拍車をかけたのだ。

 そして、1975年(昭和50年)にゴルフ場数は1000を突破。1971年(昭和46年)までに各地区のゴルフ連盟も組織(1981年に四国は中国から独立)され、日本のゴルフ場を支える組織も確立していった。


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