2001 JUNE vol.66
 苦心の末、研究開始後2年の歳月を経てアイアンヘッドが誕生。そう、国産クラブの完成へ向けて時代が動き出した。ヘッドの開発に伴い、シャフトの需要が高まることは火を見るよりも明らかであった。当時、世界のシャフトはヒッコリーからスチールへと流れが大きく変わろうとしていた。“スチールなら日本でも”そう考えた、日暮里のとあるスポーツ店の店主が、当時・神田で医療器具の製造に携わっていた島田辰次郎氏にシャフトの研究を促した。

「当時は医療器具の他に、フェンシングの剣やフィギュアスケートの金具なども作っていたんです」と島田さん。

 かくして島田さん父子は、本格的なシャフト製作に乗り出すべく、家族を連れて大宮に移転した。

「とにかく日本で初めての物を作るわけですから、失敗が怖かった。だから父は父で、私は私で、それぞれの信じる手法でシャフト造りをスタートしました」と島田さん。

 その当時、手に入った米国製のスチールシャフトはアポロとユニオンという2種類のシャフト。アポロを参考にした辰次郎さんの案は、カーボン含有率の低いパイプを素材にし、浸炭焼き入れでシャフトにするという方法だった。一方、浅夫さんはユニオンを手本に、カーボン含有率の高い鋼鈑を素材にパイプを作り、それに焼き入れを施す方法で作業を進めた。

 最終的に採用されたのは父である辰次郎さんの案。しかし、シャフトが20本ほど入る金属製の円筒を作り、そこへカーボンをはじめ、鉛化アンモニア、青酸カリなど7種類の薬品を詰めて、一緒に熱処理を施す。この作業の難度、危険の高さは計り知れなかった。

 そうして、本格的なシャフト製作をスタートしてから1年後、困難な作業を乗り越え、1936年に国産初のスチールシャフトが完成した。それに国産のアイアンヘッドを装着し、純国産アイアンクラブの誕生に至ったのだ。

「完成したのはいいのですが、“浸炭焼き入れ”というのは、製品の良さが出来上がってみないと分からないという欠点があったのです」と島田さんは振り返った。

 浸炭焼き入れというのは、複数のパイプを一緒に加熱する。それらに温度が満遍なくまわらず、全て製品として使えなかったという。つまり、大量生産が難しかったのである。

「どうしたらいいか試行錯誤を繰り返した時期に、父のふとした手違いから薬品が爆発してしまったんです。この事故で父の片目は失明を余儀なくされた。そこで、当初私が担当していた方法に変更したというわけです。しかしながら、改良の余地があると感じ、ヒントを得るため洋傘屋さんへ奉公に行きました。探求心というものですかね」。

 板からパイプにする技術を、約半年ぐらいかけて習得。そして、現在の製造法の基礎である“島田式シャフト製造術”が完成されたのである。

 厚さ0.35ミリほどの炭素の含有率の高い綱板を扇形に裁断。これに上から圧力をかけてU字溝にする。さらにU字溝の開いている部分を叩きながら併せて△型管にして、そこを溶接。この溶接を酸素による高熱だけで溶着させた。もちろん、すべて手作業。同じ速度で同じ間隔を保ちながら、酸素の口火を移動させる。一瞬も息の抜けない作業だった。

 だが、この工程を確立できたことにより、初めて1本1本、確実に出荷可能な製品を生産できるようになったのである。

 また、この島田さんのスチールシャフト生産が、日本においてのヒッコリーからスチールへの転換という大きな要因になったことは言うまでもない。


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