2001 SEPTEMBER vol.67
 このようにプロゴルファーとして生活する場を自らの手で作り上げて行った当時のプロゴルファーたち。だから「お客さんと自分の所属するゴルフ場を大切にしなくては自分の存在がなくなってしまうのです。本当にありがたかったですね。あの当時快く協力してくれたアマチュアプレーヤーとゴルフ場がなければ、私や私の仲間の存在はありませんでした」と林は改めて感謝の思いを込めて少し沈黙してしまった。

「そうそう、その後自分たちの競技を見せてお金を集められないかという話が持ち上がり、今でいうギャラリー券を売り出したんです。最初の試合が月例だったかどうかは覚えていませんが、特定のお客さんに大金を出してもらうだけでなく、プレーを見せて多くの人から安いお金をいただければ、試合数も増やせるというのが発案のきっかけだったのです」と林はいう。もちろんギャラリー券の販売は、すべて出場選手が行っている。

 戦後初の日本オープンが1950年に開催され、少しずつではあるがゴルフ界も落ち着きを見せ始めた頃、当時の林たちにはまさに耳を疑うビッグニュースが飛び込んできたのである。1953年、“ワンパット10万円のスリル”のキャッチフレーズで有名な賞金総額100万円、優勝賞金30万円の読売プロゴルフ選手権(現・アジアパシフィックオープン)開催というニュースだった。

「賞金額の高さにも驚き胸躍りましたが、それより何より自分たちで賞金を集めなくていいことに戸惑いに似た喜びを感じました」と林は当時のカルチャーショックにも似た感動を口にする。この試合で林は優勝し、現在の住まいを手に入れたのである。
 林は1952年から3年間、シカゴのタモシャンタで行われた全米国ゴルフトーナメントと世界プロゴルフ選手権に派遣された。

 林が歴史に残した偉大な記録として、1956年に英国・ウエントワースで開催された第4回カナダカップについても記しておきたい。林は石井 夫とともに日本代表として出場。最終日の後半18ホール(1日36ホールのストロークプレー)は、林、石井ともにベン・ホーガン、サム・スニードと並ぶ68の好スコアをマーク。団体4位タイの好成績を収めたのである。渡航事情、現地の居住生活、言葉の問題など、日本チームが優勝した第5回大会とは比べようがない劣悪な環境の中での戦いだったと言えよう。

「カナダカップや海外の試合にも何度か出場することができました。時代の流れに伴い大きな賞金額の試合がどんどん増えていきました。でもこれらすべての要因は、ゴルフがアマチュアに愛されているからなのです。当初自分たちの生活、戦いの場は一部のお金持ちのお客さんに作ってもらいましたが、今は企業が中心となって試合を開催してくれています。しかし、どちらもゴルフに理解と関心を持つお客さんがいるからこそ、実現されていることには変わりありません。時代がどんなに変わろうとアマチュアあっての私たちなのです。綺麗事ではなく、あの時代を経験した者であれば、誰でも言える言葉だと思います」と林は言葉を結んだ。

 古き良き時代だと昔を必要以上に美化するつもりはないが、資金的援助ではなくても、アマチュアがゴルフをその思想や自らの行動でリードしなければ、プロフェッショナルを含めたゴルフ界の発展はないと、林の言葉を聞き思い知らされたようである。


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