2002 MARCH vol.69
 ハンディキャップの歴史をたどると、やはりゴルフ発祥の地、17世紀の英国に遡る。1754年にR&Aが誕生した当時、流行していた競馬で、速い馬に他の馬より重たい斤量を背負わせることを『ハンディキャップ』と呼ぶようになった。このアイディアをゴルフに取り入れたものだ。説として、その後のハンディキャップは次のような方法で実施されていたようである。
距離による調節法:
技量の差で20〜50ヤード前方のティを使用。現在のフロント、レギュラー、バックの起源となるラビットティとタイガーティが存在した。

スリーサム、フォーサムの競技方法:両者の技量を均分化

クラブ本数を制限、または競技方法としてBISQUE(ビスク)マッチ・プレーを採用:
BISQUEとは下手な相手が勝手にホールを選び適当な打数を加算するもの。ハンディキャップにストロークの概念が初めて導入された画期的なシステム。そのホールは事前に相手に通告、ホールアウト後に通告する場合もあった(HDCPホールの順列がなかった)。

 そして1800年代に入ると、具体的なハンディキャップシステムが出来始める。各クラブの実力ナンバー1のプレーヤーを基準にスクラッチ(HDCP0)とし、他のメンバーは、そのスクラッチプレーヤーと平均水準で比較してHDCP係が算出、決定していた。現在の基準では考えられないが、HDCP+10を記録する選手も現れた。

 米国では、1894年にUSGAが設立され、1911年にトーマス・ジ・マクマホンが、スコアとコースレートの間にディファレンシャル方式を用いることを発明した。1963年にマクマホンの考案したシステムを元にUSGAのHDCP規約を制定。これが現在のシステムの源である。

 一方、日本におけるハンディキャップシステムは、1924年のJGA創立以来、基本的にUSGAにのっとった形で運営されてきた。それ以前は、各コースが独自に設定したハンディキャップを用いていた。日本最初のゴルフ場である神戸ゴルフ倶楽部でも独自のハンディキャップを採用しており、男女とも、日本最初のスクラッチプレーヤーを輩出した。また、その過程では、アマチュアゴルファーだけでなくプロゴルファーにもハンディキャップを採用していた時期もあった。

 現在のものとほぼ同じJGAハンディキャップが制定されたのは1978年。各クラブが独自のコースレートによるハンディキャップを設けていたため、基準となるコースレート査定を統一するまでに時間を要したのであった。
ハンディキャップという用語がまだなく、オッズ(Odds)などの打数の差を意味する言葉を使い分けていた19世紀。優劣の差を埋める方法として案出されたのが、下手なものが上手なものより前方からティショットをすることでした。これは当時のランニングレース(徒競走)に広く用いられていた方法と共通するもので、現在のフロントティとバックティはこの名残りとされます。
 しかしながら、完全に公平を期することはなく、下手なものは兎のごとく小刻みに飛ぶのに対し、上手なものはまるで虎のような勢いの弾道で、たちまち追い抜いてしまう様子から、以来スコットランドでは下手なものをラビット、上手なものをタイガーと呼ぶようになりました。フロントティをラビットティ、バックティをタイガーティと呼ぶのは、ここから来ています。


 1855年に開催されて以来、全英オープンを制覇してきたのは全員スコットランド人でした。創始36年目の1890年に初めてイングランド人であるジョン・ボールが優勝しました。さらに、その年の全英アマチュア選手権のタイトルにも輝いており、同じ年に双方のチャンピオンカップを手にしたのはジョンが初めてのことでした。ジョン29歳のこの年、5つのコースでレコードを更新し、いくつかのスクラッチメダルを手中にし、ハンディキャップ+10という記録を残しました。
 全英アマチュア選手権で9勝をあげ、スコットランドとの対抗アマチュア競技において1902年から10年間、イングランドの主将を務めましたが、1940年不帰の人となりました。


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