2001 MARCH vol.65
 興味深いのは各ホールに名付けられた愛称。例えば、難易度の高い5番ホールは、当時ライバル意識を燃やしあっていた港町「横浜」の名前を付け、最終18番ホールには「一杯やろう」を意味するスコットランド語で呼ばれていた。そしてラウンド後の「19番ホール」では、質素なクラブハウスでほのぼのとした語らいの時間が流れ、社会的地位を除外した対等の人間関係が築かれていった。

 開場2年目の1904年(明治37年)には、さらに9ホールが増設され、18ホールが完成。1905年(明治38年)9月、「婦人フォアサム競技」と「ロングドライビング競技」が、さらに10月には「キャディ競技」と呼ばれる、いずれも日本初の競技会が続々と開催される。

 また当時、神戸と横浜の外国人たちはライバル関係にあった。「ゴルフで決着をつけよう」という意志のもと、1903年に創立していた「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(9ホール)と神戸GCとの間で「インターポートマッチ」も1907年(明治40年)からスタートしている。
 神戸GCのメンバーの動向に目を向けると、同年には会員が165人に増え、その翌年の1905年にはさらに53人が入会(うち日本人は8人)。開場当時、日本人のメンバーは名誉会員であったが、1907年に日本人最初のゴルファー、小倉正太郎とその妹小倉末子(後のピアニスト)が入会するなど次第に日本人ゴルファーが進出してくる。1925年(大正11年)に入ると、メンバー中、日本人の割合が半数を占め、倶楽部選手権の優勝は男女ともに日本人が獲得。大正から昭和に入る頃から、日本のゴルフ界は日本人が統制するようになり、日本人ゴルファーの存在が国内で確立されてゆく。

 昭和の声を聞くと、神戸GCはある変化を試みた。それまでのグリーンをグラスグリーンに変えようというものだ。1930年(昭和5年)、試験的に10番ホールに高麗芝を植え込み、好成績を得ると、飛距離を長くした3、4番ホールにも芝を植える。芝の張り替えから3年後には全ホール、グラスグリーンに変貌を遂げた。神戸GCはクラブハウスも新設し、近代化に成功した。


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