2001 MARCH vol.65
 開場から40年近くを経て、ますます隆盛をみせる神戸GCだが、1941年(昭和16年)、日本が第2次世界大戦に突入すると同時に暗黒の時代が訪れる。“敵性語”の禁止により日本からカタカナ文字が姿を消し、「ゴルフ」が「打球」になった。神戸GCの外国人メンバーは15人まで削減され、それ以後、日本人が倶楽部の経営を担当することになる。また、1939年(昭和14年)から導入されたゴルフ入場税は、翌年2割、2年後は5割、4年後には9割へと急騰。日本の戦局が劣性に立たされると、次々とゴルフ場は解散し、1945年(昭和20年)には遂に神戸GCも閉鎖へと追い込まれる。コース内のフェアーウェーやグリーンは、じゃがいもや朝鮮アサガオ畑といった菜園として利用された。神戸GCはゴルフ場としての機能を失いつつあった。

 終戦後の1946年(昭和21年)4月、神戸GCは米軍に接収され、米国軍人がプレーするためのコースに変わった。しかし、この接収時代にコース内は日本人の手によって復旧作業が行われ、6月には9ホールが使用可能に。また、グリーンの惨状を救うため、1948年(昭和23年)、米国からベント芝を取り寄せ、各ホールにオーバーシードを始めた。1952年(昭和27年)2月に米軍接収が解除されるのだが、実は米国に管理されることにより、神戸GCは戦後の不況による解散を免れた。いや、ベントグリーンの導入により、発展した姿で甦ったといっても過言ではない。


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