2001 JUNE vol.66
 ブリヂストンという名が、その創業者である故・石橋正二郎氏の姓“石橋”を英訳して付けられたことは、あまりにも有名な話だ。だが、略号の“BS”に“ベストサービス”という意味があるということをご存知の方はどのくらいいるだろうか。その非凡なアイディアを武器に、生涯次から次へと多種多様なサービスを世に提供し続けた彼の足跡を振り返ってみたい。

 石橋氏は、1889年2月1日、福岡県久留米市で仕立物業を営んでいた徳次郎、まつ夫婦の次男として誕生した。

 久留米市荘島小学校から久留米高等小学校、久留米商業学校へと進学。石橋氏は、兄が仕立物業を継いでくれると考え、神戸高商(現・神戸商大)への進学を希望した。だが、父が心臓病で引退を決意。兄一人では心細いと兄弟二人で家業を継ぐことを希望。かくして石橋は兄とともに家業を継ぐことになったが、“兄弟二人もかかって継ぐ事業ではない!”と考えていたという。

 1906年(明治39年)、石橋氏が17才の時だった。この年の暮れ、兄が軍隊へ入営。石橋氏一人が家業を切り盛りすることになった。そこで、早速その手腕が発揮される。

 まず、将来の発展のための基礎作りとして、仕立物業ではなく全国的に発展するような事業に変える必要があると考えた。1893年(明治26年)に父が仕立物業と並行して始めた足袋製造業に専業をすることを決心し、断行した。

 だが、当時の日本には高額な広告費を使って販売しているライバル会社が3社あった。そこで石橋氏は、“こういう困難を突破するには奇抜なアイディアが必要”とし、当時九州には1台しかなかった自動車を購入して広告宣伝に使用したり、また大きさや品種によって価格が異なっていた足袋を全て均一の価格で販売する「足袋売値均一制」を導入するなど、高校を卒業してからわずか8年間でライバル社と肩を並べる急成長を遂げた。

 その年の、1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発。この状況下の中でも石橋氏は、事前に物価の高騰を予測。1年分の原料を買い入れていたため、大いに利益を挙げた。

 さらに、足袋にゴム底を張り付けた『地下足袋』を考案。1923年(大正12年)に『アサヒ地下足袋』を発売。この発売にいたっても、当時の三井三池炭鉱の1000人余りに試作品を配って、その性能を確かめた。もちろん、この地下足袋は爆発的なヒットを記録した。そして、地下足袋のかたわら、ゴム製の靴や長靴の製造にも着手していた。


Back

Next
閉じる