2001 JUNE vol.66
 地下足袋、ゴム靴の成功はしたが、いずれも将来のゴム工業として財をなすものとは考えていなかった石橋氏。そこで、彼が目を向けたのは自動車のタイヤだった。

 当時、日本にあった自動車6万台。タイヤは欧米からの輸入に頼っており、大変高価なものとされていた。石橋氏はこの状況を見て、1929年(昭和4年)に米国から300本のタイヤを製造できる機械を購入。1930年(昭和5年)には久留米市に仮工場を建設。同年5月11日に国内初の自動車タイヤの生産に成功した。

 いざ発売となるわけだが、当時タイヤは舶来品でなければ信用されなかった。また、輸出も考えていた石橋氏は、英語のネーミングで発売することを決断。このネーミングこそ『ブリヂストン』である。

 翌1931年(昭和6年)には、久留米市にブリヂストンタイヤ株式会社を設立する。発売にあたり、故障品は無償で引き換えるという「責任保証制」を採用。国産タイヤの出現で、当時トラック用タイヤが1本110円程度だったものが、40円程度まで値下がりし、ブリヂストンタイヤは大いに歓迎された。

 そして、この年石橋氏は新たな分野へその羽を伸ばそうとしていた。先見の明を持ち合わせた彼のベクトルが次に差したもの。それはゴルフボールだったのだ。
 当時、日本のゴルフ場は約45。在日英国人や日本人でも上流階級の人々しかプレーできない時代。ゴルフ人口もまだまだ少ない時代だった。

 ちょうど石橋氏の兄が、1925年頃からゴルフに熱中し、ゴルファーとしての腕前もなかなかのものだった。石橋氏本人も、1926年(大正15年)に福岡県の福岡カンツリークラブが創設された当初の会員だった。以来、生涯スポーツとしてゴルフを楽しんだという。


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