2001 SEPTEMBER vol.67
「両親、兄ともにゴルフを愛好しておりましたので、私も自然とゴルフをプレーするようになりましたね。母のほうが、父よりも格上だったのではないでしょうか(笑)」と、話しはじめた近衞通 氏。父・近衞文磨氏も母・千代子さんもゴルフ愛好家として知られ、また、兄の文 氏は1931年の日本アマに出場したトップアマ。若冠16才ながら予選を突破し、“驚異の新人登場”ということでゴルフ界の注目を浴びた人物だ。

「兄は、飛距離が出るほうで、大きなショットが上手かったですね。逆に、50ヤード圏内のアプローチショットが苦手だったようです。飛びすぎてしまうと“バカ!”と頭を抱えていました。技術的な面でも兄からは色々教えてもらいましたね」(近衞氏)。

 この近衞氏の兄である文 氏が活躍した翌年の1932年、日本アマの歴史に新たな1ページが加わった。関西の成宮喜兵衛氏が優勝し、初めて関西勢が日本アマを制したのだ。成宮氏は、豪放磊落な性格で関西の名物ゴルファーだった。

「成宮さんは非常にお酒の強い方でした。東西対抗の時などは、関東チームは前夜成宮さんに飲み倒されて、翌日のラウンドがぼろぼろになってしまったこともありましたね。試合で対戦したこともありましたが、アップダウンがきついホールなどは“オイ、近衞くん、俺の腰を押してくれよ”なんて子供扱いを受けましたよ(笑)。そんなことをいうゴルファーは、後にも先にも成宮さんだけでした」(近衞氏)。
 この翌年、日本アマを制したのは鍋島直泰氏。以後3連覇を果たし、日本人として初の快挙を成し遂げた。
「実におしゃれな方でした。ゴルフは小技が上手かったです。ゴルフ以外もマメな人で、プレー後、シューズの鋲を全て抜いて、油を塗り、再び鋲をはめているんです。そんな姿をよく試合会場で見かけましたね」(近衞氏)。

 そして36年、偉大なアマチュアゴルファーが日本アマで旋風を巻き起こした。佐藤儀一氏である。この年の優勝で佐藤氏は、鍋島氏に続く3連覇を達成。また、41年にも優勝し、通算4回の日本アマタイトルを手にしたのである。プレー中もトレードマークのパイプを片時も手放すことがなかったという。35年まで米国で過ごした佐藤氏は、渡米していた宮本留吉らプロとともに試合に参加。その時、プロよりも良い成績を残したという伝説のアマチュアゴルファーだ。

 近衞氏も、戦いを共にしたゴルファーの中で最も印象的だったのが、佐藤氏であると答えた。近衞氏と実際に対戦するようになったのは、この快挙から15年ほど後、戦後のこと。1950年、近衞氏が東西対抗初参加の時にシングルスで対戦したのが佐藤氏だった。2アンド1で近衞氏が敗れる結果となったが、翌年もシングルスで対決。この時は1アップで近衞氏がリベンジしている。
「何人ものゴルファーにお会いしましたが、あれほど上手なゴルファーはいないと言っても過言ではありません。パイプを片手に持って、フェアーウェーをのっし、のっしと歩いてきたと思ったら、あっという間に次打を打ってしまう。本当にあざやかなプレーでした。2打でグリーンに乗らなくても100ヤード離れた地点からの第3打目のアプローチは確実にワンパット圏内に寄せていました。大変な練習量をこなしていたようです。一度佐藤さんに“近衞さん、なんで皆さんは練習場でドライバーの練習を熱心にするのだろう?”と言われたことがあります。“ドライバーなんてまっすぐ行くはずがない。なぜ50ヤード以内のアプローチの練習をしないんだ。アプローチはすればするほど、上手くなるのに……”と言ってましたね」(近衞氏)。

 そんな伝説のゴルファーである佐藤氏の4連覇を阻んだのが、当時東大生だった原田盛治氏。1939年の日本アマで佐藤氏を破ると、続く日本オープンでは同じく学生だった久保田瑞穂氏とともに、10位タイに入賞し一躍注目の的となった。
「原田さんは、兄とペアを組んでプロの林萬福さんと陳清水さんの組に対戦したことがあります。アマがプロと戦ったのですから、当時もかなり話題になりましたね。原田さんは弾道が非常に高かったのが印象的です。対照的に久保田  んは低い弾道でした。飛距離は  2人とも同じぐらいなんですが、球筋は全く違うものでしたね」(近衞氏)。
 1941年、戦時体制に入ったこの年、日本オープンは行なわれたものの、アマチュアの競技は自粛された。翌年にはJGAが解散。辛うじて日本アマが行われ、成宮氏が戦前最後の日本アマチャピオンに輝いた。


Back

Next
閉じる