2004 DECEMBER vol.76
日本人が創造した朝鮮のゴルフと延徳春の活躍
1941年日本オープンを制した延徳春
 (財)日本ゴルフ協会は1942(昭和17)年、時局が戦時体制に入ったため解散させられたが、その時点における加盟倶楽部数は59倶楽部を数えた。朝鮮(現在の韓国、北朝鮮)には4倶楽部があった。いずれも日本ゴルフ協会に加盟していた。その代表格は京城ゴルフ倶楽部であった。以下、釜山ゴルフ倶楽部、元山ゴルフ倶楽部、平壌ゴルフ倶楽部が栄えた。1934(昭和9)年に刊行されたゴルフ誌によると朝鮮や旧満州にあったゴルフ倶楽部は内地から浅見緑蔵、安田幸吉、中村兼吉というトップクラスのプロを招聘した。会員たちの技術向上のために指導を仰いだ。その時代、朝鮮のコースには技術指導のできるプロがいなかった。草創期のプロの浅見さんは『クラブハウス(京城ゴルフ倶楽部)は朝鮮式の風変わりな建物だった。ポプラの高い木が沢山あり、夏とはいえ涼しく感じられた。会員は309人にのぼり、皆さん熱心に指導をお受けになりました』と出張レッスン印象記を、ゴルフ誌にこうまとめている。

 その頃、京城GCの日本人の会員たちは、若いプロを育てて内地の競技に出場させたいという熱意に燃えていた。そんな環境下で育ったのが延徳春であった。延は1941(昭和16)年、程ケ谷CCで開かれた戦前、最後の日本オープンゴルフ選手権競技で、浅見緑蔵、陳清水、中村寅吉、孫士鈞といった当時の強豪をなぎ倒して見事優勝した。スコアは290。次点の中村寅吉に3打差をつけた。延を送り出した京城GCの幹部は『延が日本オープンに勝ち、我々の夢をかなえてくれた。今後ますます精進しゴルフ界発展に尽くします』という感謝の書状を日本ゴルフ協会に差し出したほどだ。

 この時代の朝鮮は日本が統治していたため、延は延原と日本名を名乗らされていた。かくして戦前の優勝大カップは玄界灘を渡ったが、その年の12月、太平洋戦争が勃発した。それ以来、延が持ち帰ったカップは行方不明になり、戦火が熾烈を極め、ゴルフ競技どころではなかった。延は昭和30年代、競技出場のため再三、日本を訪れている。だが、カップの行方については語ろうとしなかった。


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