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JGA年史
※敬称は略させていただききました。
1930〜1939年
1930 昭和5年
5月20日
JGAはオーストラリアに遠征していたアメリカのウォルター・ヘーゲンとオーストラリア出身で曲打ちの名人ジョー・カークウッドの来日を要請。関東、関西で計6回のエキシビションマッチを開催した。同月の24日、茨木カンツリー倶楽部で宮本留吉、安田幸吉を相手にフォアボールマッチを行ったのを皮切りに、鳴尾、宝塚や東京、武蔵野、程ケ谷の各倶楽部を巡回して優れた技術を披露した一行は東京・新宿御苑のコースに招かれて、天皇陛下(昭和天皇)にも妙技をご覧に入れた。
6月15日
アマチュア東西対抗(東京GC)に関東は10−5で関西を降して4連勝を達成。
6月19日〜22日
日本アマチュア選手権を東京ゴルフ倶楽部で開催。16人が参加して予選なしのマッチプレーが行われた結果、赤星六郎が相馬孟胤を10アンド9で降して初優勝。
 ※東京ゴルフ倶楽部で婦人東西対抗戦。10−2で東京婦人ゴルフ倶楽部が快勝(6月19日)。
10月22日
第1回プロフェッショナル東西対抗が茨木カンツリー倶楽部で行われ、関西が7−2で勝つ。
10月25日〜26日
茨木カンツリー倶楽部で行われた日本オープン選手権に、宮本留吉が2年連続優勝。
12月13日
その年の終わりの12月には、JGAの要請でアメリカのビル・メルホーン、ボビー・クルクシャンクの2人が豪州、東南アジア遠征の帰途、日本に立ち寄った。同月16日には東京ゴルフ倶楽部で赤星四郎、六郎を相手にベストマッチを行い、その後、程ケ谷, 茨木の各倶楽部でのエキシビションマッチに出場した。
1931 昭和6年
※関東プロ選手権始まる(8月10日〜12日、程ケ谷CC) 。
※婦人東西対抗(鳴尾GC)で東京婦人ゴルフ倶楽部が8−4で快勝(9月23日)。
9月24日
鳴尾ゴルフ倶楽部で行われたアマチュア東西対抗に、関東が5連勝。
9月26日〜29日
茨木カンツリー倶楽部で行われた日本アマチュア選手権に、慶応義塾大学の名投手として活躍した新田恭一が優勝。
 ※関西プロ選手権始まる(10月5日〜7日、茨木CC)。
10月26日〜28日
日本プロゴルフ選手権創始。武蔵野カンツリー倶楽部藤ケ谷コースで第1回大会を挙行。
浅見緑蔵が陳清水を5アンド3で破り初のチャンピオンになる。
10月31日〜11月1日
日本オープン選手権(程ケ谷CC)に浅見緑蔵が2度目の優勝。
この年、浅見は日本オープン、同プロ、関東プロ選手権の三大タイトルを手中にした。
11月11日
プロの安田幸吉、浅見緑蔵、宮本留吉の3人は、米国西海岸で行われるウィンターサーキット参加のため渡米。
3人の所属各倶楽部、JGA、関西ゴルフ聯盟はこの遠征を側面から支援した。
1932 昭和7年
※宮本留吉、全英オープン選手権に出場(6月6日〜12日)。全米オープン選手権にも出場(6月23日〜25日)。
10月3日〜5日
第2回日本プロ選手権に初の外人プロ(ラリー・モンテス)が優勝(鳴尾GC)。モンテスはフィリピンの出身で、職を求めて来日、レッスンをしながら生計を立てていたが、霞ケ関カンツリー倶楽部専属に登用されたプロだった。
1933 昭和8年
10月6日〜8日
日本オープン選手権に中村兼吉がラリー・モンテスを抑えて優勝(霞ヶ関CC)。この年、大谷光明はアマチュアの奮起を促す目的で自らがデザインした賞牌を寄贈し、日本オープンの3位以内に入ったアマチュアに与えることになっていたが、その後該当者なしで幻の賞牌と消えてしまった。

◇JGA加盟倶楽部が23倶楽部になる。
1934 昭和9年
※北海道ゴルフ聯盟創立(6月3日)
10月5日〜7日
関西風水害のために日本オープン選手権は中止となる(廣野GC)。

◇JGA加盟倶楽部数は24。
1935 昭和10年
JGA副会長に大谷光明、理事長に森村市左衛門が就任。
 ※関東学生ゴルフ聯盟創立(2月2日)。
4月9日〜8月15日
JGAは日米対抗戦のほか、米国各地でのエキシビションマッチ出場のため、加沼豊(JGA書記)を監督に、チームキャプテン安田幸吉、以下浅見緑蔵、陳清水、中村兼吉、宮本留吉、戸田藤一郎の6人を渡米させた。一行は3ヵ月にわたり各地を転戦し、42戦25勝13敗4引き分け(日米対抗戦)の成績を残した。
6月6日〜8日全米オープンにも出場。

◇当時JGAの日本語表記は日本ゴルフ聯盟。
5月29日〜6月1日
日本アマチュア選手権で鍋島直泰が勝ち、3連覇の偉業を達成(廣野GC)。
 ※関東ゴルフ聯盟創立(6月7日)。
8月1日
ゴルフ競技規則の邦文を制定。
これまでの競技規則は英文だったが、邦文化への委員会(大谷光明、高畑誠一、末弘厳太郎ら)の手で翻訳された。
12月10日
JGAは陳清水、戸田藤一郎の2人を米本土のウィンターサーキット出場のために渡米させた。

◇加盟倶楽部数は27。
1936 昭和11年
JGA副会長に大谷光明が重任。

この年度のJGA理事
理事長 森村市左衛門(重任)
理 事 石井光次郎(重任)
 〃  藤田 欽哉(重任)
 〃  野村 駿吉(新任)
 〃  高畑 誠一(重任)
 〃  広岡久右衛門(新任)
 〃  H.C.クレーン(新任)

 ※渡米中の陳清水、戸田藤一郎はマスターズ・トーナメントに出場し、陳が20位タイ、
  また同年の全米オープンでは45位タイの好成績を残した(4月4日〜6月6日)。

◇加盟倶楽部数は30。
1937 昭和12年
1月18日
従来のJGAの英文規約、細則を邦文に改訂し、日本ゴルフ聯盟の名称を日本ゴルフ協会とすることを同日の臨時総会で決定。従来のチェアマン制を会長制に改め森村市左衛門が就任した。また、副会長制を廃止して大谷光明が理事長に選任された。
日本ゴルフ協会の関西支部を茨木カンツリー倶楽部内に設ける。
 ※満洲ゴルフ聯盟創立(2月11日旅順、奉天、星ケ浦等10クラブが参加)。
10月16日〜31日
JGA、KGA、KGUの3団体でアメリカのプロ、ジーン・サラゼンを招き、模範競技会が開催された。
この年の秋、サラゼンはアメリカの富豪に伴われて極東を旅行するという計画を持っていたため、日本のゴルフ界が来日を要請したところ快諾を得、東京ゴルフ倶楽部(朝霞コース)と茨木カンツリー倶楽部での模範競技会に出場した。東京ゴルフ倶楽部ではサラゼン・安田幸吉組×陳清水・林万福組、茨木カンツリー倶楽部ではサラゼン・村木章組×宮本留吉・石井治作組のマッチが行われ、両コースに計1,700人の観客が集まった。

◇加盟倶楽部数は34。
1938 昭和13年
1月7日〜9日
JGa関西支部の久富宗憲を監督に、プロ9人がフィリピン・オープン選手権に出場。陳清水が2位に戸田藤一郎が3位に入賞。
4月21日〜5月5日
ヘーゲンとカークウッドは世界行脚の途中、日本に立ち寄り、JGAの要請で廣野、茨木、和合、小金井、程ケ谷でエキシビションマッチに出場した。
5月25日〜28日
日本アマチュア選手権で佐藤儀一が優勝し、鍋島直泰に次ぎ2人目の3連覇を達成(程ケ谷CC)。
5月31日
JGAは日本体育協会(現・公益財団法人日本体育協会)に加盟し、陸上、水泳、体操、蹴球などのオリンピック種目と肩を並べられるスポーツ団体として認められた。
この年、JGAの団旗が誕生し、11月3日(当時は明治節)の国民精神作興国民大会(日本体育協会主催)の体育行進に参加してお目見得した。深紅の布地に、金色の大鵬がゴルフボールをくわえている図案だった。
8月1日
戦時態勢に入り、ゴルフボールは各倶楽部あての配給制を決定。

◇加盟倶楽部数は36。
1939 昭和14年
1月6日〜8日
マニラで行われたフィリピン・オープン選手権にJGA書記・加沼豊を監督にアマ2人、プロ11人を渡比させる。
陳清水が2年連続2位に入賞、アマの三好徳行が10位タイの好成績を残す。
10月21日
日本プロ選手権に戸田藤一郎が勝ち、日本オープン、日本プロ、関西オープン、関西プロの4大タイトルを同一年度制覇の快挙。
11月
前年10月より実施したボールの価格配給の統制は材料不足のため製造不可能になり、JGAは新規材料の供給を政府に要請。配給は12月で打切った。

◇加盟倶楽部数は42。
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