Japan Senior Open Golf Championship 2025日本シニアオープンゴルフ選手権
9月18日(木) 〜 9月21日(日)
相模原ゴルフクラブ 東コース
競技メニュー
競技報告:Y.Koseki 写真:Y.Watanabe / K.Aida
喜多翔一(55歳)の2年ぶり、3度目の日本シニアオープンゴルフ選手権は通算3オーバーパー、37位タイの成績で終わった。
アテストを終えた喜多に、今回無事に4日間プレーできたことについて感想を求めた。すると、直前まで「お疲れさま」「よく頑張ったね」とねぎらいの言葉をかけてくれる友人・知人に、笑顔で「ありがとう」「おおきに」と答えていた喜多が静かに俯いた。そして、顔を挙げると、その大きな目はうるうると光っていた。
「僕の病気を知ってくれているJGAやボランティアの方々が『体、大丈夫ですか?』って応援してくれるんですよ。一緒に回ったプレーヤーたちも、ストーマ(人工肛門)付けていること知ってるから、途中トイレに行くときに『いいから、ゆっくりトイレしてきて』って……。感動しちゃいました」と、少し震える声で答えた。
喜多の病気が発見されたのはわずか1年半前。
「3月25日に、前の日すごくお腹が痛くなったので、知り合いのドクター(医者)の病院に行って血液検査したら貧血が分かって、『男の貧血はあかんなぁ』って、CT撮ったり胃カメラ飲んだり。結果、『がんじゃないかな』って。それで26日に、大阪国際がんセンターに行かされて検査したら、(血液のがんと言われる)『悪性リンパ腫』のステージ4やで、って。そのままパンツ一丁で緊急入院。(あれよあれよという間の)トントン拍子ですわ。えっ⁉ どういうこと。俺、2日前まで元気にゴルフしてたんやで(笑)」
翌日からすぐに抗がん剤治療が始まる。明るさ、元気の良さが持ち前の喜多もさすがに気持ちは凹む。3日後の29日、待望の初孫が生まれたのだが、男の子だったため「あの子の交代で俺は死ぬんやなあ、と思ったりもしました」と真剣な面持ちで振り返る。
抗がん剤の副作用はすぐに頭髪に現れた。シャンプーをすると、手には泡と一緒に大量の頭髪が絡みつく。そして、遂にはほとんどの頭髪がバサッと頭から抜け落ちた。「俺、ズラやったっけ?と思いましたわ」と破顔一笑。そして、「みんな信じてくれないんだけど、これマジ。ただ、今となっては(笑いを取る)ネタですけどね」。
幸い抗がん剤治療は順調に進み、6月26日に退院することになった。
ところが、前夜25日の11時頃、急にお腹が痛み出す。耐え兼ねた喜多は夜勤の医師に痛みを訴える。すると、「その先生はたまたま外科だったので、『そんなに痛いんなら、CT撮ってみよう』って。それで調べたら『自分(=あなた)、腸破裂してるで。すぐに手術しないと、自分死ぬで、ほんまに死ぬで』って。抗がん剤の副作用でS字結腸が破裂してたんですよ。でも、僕は家族を呼んでからじゃないと怖いから、ちょっと待ってと言ったら、先生は『腸が破裂して、お腹の中に菌が回ってるんだから、1分1秒も待てない』って。そのままICU(集中治療室)に4日間、そのあとHCU(高度治療室)に4日間。ずっと寝たまんま。それで、お腹にこのストーマが付いたんです」と、シャツの下に隠れている四角いユニットを示す。
こうして一時は“死の瀬戸際”まで行くも、9月2日に退院。10月1日にPET検査(放射性薬剤を投与して全身を対象に悪性リンパ腫によるがん細胞の転移や再発の診断を行う検査)を受けた結果、同4日に寛解(がん細胞の活動停止状態)の診断。そして、11月1日に所属先の島ヶ原カントリークラブ(三重県)に出社、社会復帰となる。
「お腹は動くとめちゃくちゃ痛いんですよ。痛いけど、会社(島ヶ原CC)のみんなは心配しているし、ゴルフ場のメンバーもゴルフ仲間も、みんな心配するから早く戻りたかった。しかも、ありがたいことに、うちの会社は僕のためにストーマの人の専用トイレのオストメイト対応トイレを造ってくれたんです。これだと、トイレは本当に楽。これがあるから、僕は不安なく会社に行ける。ありがたいことです」
ゴルフの練習はすぐに再開。といっても、最初は5ヤードほどのチップショットをコツコツと。しばらく経ってコースに出てみたが、途中でギブアップする日々が続いた。
「そんな感じだったので、今年は競技には出るつもりはなかったんです。ところが、中部地区に三重県オープン(5月29日~30日、近鉄賢島CC、6959ヤード・パー72)というのがあって、うちの支配人が『話題になるから出ろ』って(笑)。これが競技復帰戦でした。そしたら、なんと第1日に68が出たんですよ。ドライバーは多分200ヤードも飛んでなかったんじゃないかな。それで、こんな状態でもゴルフができるんだって」と自分ながら驚いたという。
喜多は、このときも今も、日本シニアオープンでプレーすることを一番の目標に置いている。そして、この目標があるから痛みに屈せず頑張れるんだと。
「最初、今年のシニアオープンは無理だから申し込む気はまったくなかったんです。ところが、鳴尾ゴルフ倶楽部での地区予選も、そのあとの大山ゴルフクラブでの最終予選も乗用カートと教えられて、だったら出てみようって。それで、もし予選を通ったら、この相模原ゴルフクラブはフラットなコースでしょ。それなら歩きでも行けるんちゃうかな、って(笑)」と出場を決意。
結果は予選2試合を見事に通過。
そして、この本選は、第1ラウンドは出だしからの6ホールで3オーバーパーのスタート。いきなり崖っぷちに立たされた。しかし、そこから1オーバーパーまで挽回。第2ラウンドも終盤まで通算3オーバーパーで、後半のラウンド進出(カットラインは通算4オーバーパー)なるかハラハラさせたが、最終ホールでバーディを奪って笑顔のホールアウト。第3ラウンドは残念ながら2オーバーパーの悔しい結果に終わるも、迎えたファイナルラウンドは「実は、途中8番ホールくらいから死にかけて、キャディの磯田剛大さん(島ヶ原CCのメンバー)にもう無理かもしんないって。何度かしゃがみ込んでました」。結果、9番、10番、12番でボギー。「ところが、なんでなんでしょうね。15番でバーディを獲ったあたりから急に元気になって。俺はゾンビか、って」と笑う。
こうして最終ラウンドは今回初のアンダーパーとなる71ストロークで競技を終えた。
「応援してくれたたくさんの人たちの思いに応えるのは、ここ(日本シニアオープン)で元気なプレーを見せるのが一番と思っていました。まさか、それが今年になるとは思ってなかったんですけどね」と喜多。そのために、今後もゴルフには誠心誠意、努力を尽くすつもりという。そうしなければ、応援してくれた人たちの気持ちに背くことになるからと。
取材の最後、喜多はスマホの「メモ」に記した、今強く思うことを見せてくれた。それは口にするのは恥ずかしかったのか、それとも口にしたら涙があふれるのが怖かったのだろうか。少し長くなるが引用しよう。
「僕ゴルフしか知らないし、ゴルフしかできないんです。だから、ゴルフを通じてたくさんの人脈が出来て、たくさんの方々に助けて貰っています。今度は僕が僕と同じような境遇で悲観的になっている方々や、ストーマを装具して生活している方々の励みになりたいと思ってます。
僕、3年前に母親を大腸ガンで亡くしました。ストーマ装具していました。
母親は人前に出るのを恥ずかしいと言うてました。見た目とか、トイレが大変やからとか気にしてました。
僕も初めて自分のストーマ姿を見て、嫌やなぁ恥ずかしいなぁ思いました。でも、ストーマがあるから生きれてる!って思うようになりました。
僕が所属している島ヶ原CCは、僕が会社に戻る日に合わせて専用トイレを作ってくれました。めちゃくちゃ嬉しかった。だから、会社に行くのが大好きなんです。スタッフも凄く助けてくれるし、メンバーさん達も凄く心配して声かけてくれています。
特に毎日僕の身体の心配をしてくれてる奥様には本当に感謝してます。皆様の励ましのお陰で僕は日本シニアオープンの檜舞台に来れています。
僕がこの舞台にいる事でガンと戦っている方々やストーマを付けている方々の勇気と励みになればよいと思っています」(一部省略)
来年の日本シニアオープン(9月17日~20日、福岡県・玄海ゴルフクラブ)でも、元気にプレーする喜多翔一の姿が見られるはずだ。